昭和47年10月22日 朝の御理解
御理解 第29節
『桜の花の信心より梅の花の信心をせよ、桜の花は早よ散る、梅の花は苦労しておるから永う散らぬ。』
おかげ信心よりお徳を受ける信心をせよ、おかげ信心は早う消える、お徳を受ける信心は永う散らぬ、永う続くと、そう言う様な意味で今日は聞いて頂きたい。それは華やかなおかげを受けましても、桜の様なおかげを受けましても、信心の内容の無いおかげでありましたら、大した値打ちはないと思う。信心とは何処迄も徳に教祖の説かれる所の信心とは、やはりお徳を受ける信心、言うなら梅の花の信心、花が咲くそして実になると言う信心、信心が成る。
信心が成就して行く、そこに、お徳を受けてゆくと言う、もちろん、このお徳には限りがないのですから、そこでおかげを受けると言う事は、お取次ぎを頂いて、まあ一心にお願いをする、言う事でも、おかげを受けられる。別に皆さんが、体験しておられる様に、特別、改まった訳でもなからなければ、特別本心の玉を研いた訳でもないのに、かかわらず、いやそれとは反対に、私の様な、お粗末な信心に対しましても、と言う事になるのじゅないだろうか。
私の様な改まりも出来んし、私の様に愈々本気で心を中心にしていないのにもかかわらず、お願いをすればあれや是やとおかげを下さると言う事。ですから本気で私共が梅の花の信心言うならば、本気で心に取り組ませて頂く信心、自分の小さい心の動きでも、のがさずに自分の心の中に、こう言う汚いものが有ると、おかげをもらいたいおかげをもらいたいとゆう、言うならば信心ではいけないと言う事です。
昨日或る人から言うなら、あれが欲しい是が欲しいと言う人から、欲しいと言う事が言われた そけはあげましょうと云うたけれども此の人は、本当に愈々貰い好きだなと思うた、だからちょっと自分の心の中にいやな感じがする訳です、そのいやな感じを私は又、愈々自分ながらいやに感じたんです。こんなに沢山有るものを又は、自分の物である様にくれと言うなら、やってもいいじゃないか、まあどうした汚い人じゃろか、あれも欲しい是も欲しいと欲しがってから、と言う風なそうゆう風に思う心自体が。
又自分自身いやな感じがするんです、そう言う心をとっちめる、そう言う心を私共は逃してはならぬ。それでやはり思わせて頂く事は、兎に角あれが欲しい是が欲しい、所謂おかげが欲しいおかげを貰らいたいと言うのも同じ事ですよ。信心は言うなら私の言う事は一つも聞かんで、そんならおかげだけは下さい下さいと言うのは同じ事です、おかげを貰らいたいおかげを貰らいたいばっかりに一生懸命お参りしよる、貰らいたいばっかりに一生懸命御用しよるとするなら。
まあなんと汚い人じやろうかと、言われても思われても仕方がないじゃないでしょうが。信心ちゃその貰らう事の様に思うとるおかげを、そう言う信心を乞食信心と言う様な事になるのじゃないでしょうか、信心は何処迄も下さい下さいじゃなくてから、あげましょうあげましょうと言うもんでなからなければならん。佐賀で出来た振興宗教に善燐会と言うのがあります、あれはですね話しを聞く所によると一週間なり一生懸命信心の修行をする訳です、そしてその教主的な人の話しを聞いたら。
もう皆んなが『上げます上げます』と言うてもう盛んに言うそうです。所謂る上げましょう上げましょう、それはどう言う事かしりませんけれども、自分の心の全てを、言うなら自分の持っておる全てを、貴方に上げましょう上げましょう、と言う意味じゃないでしょうか。もうそれが熱狂的だそうですねえ上げます上げます、自分の汚いものも良い物も一切を神様にお供えすると言った意味じゃないでしょうか。
その上げましょう上げましょうが言わば神様が又、上げましょう上げましょうと言う事じゃゃないでしょうか、私はこの人ばかりはおかげ下さい下さいと言うて、始めの間はねまあ無邪気だなあとこう思うのです、邪気がない、下さい下さい子供がおやつを欲しがる様に下さい下さい。所が十年過ち二十年過ちしましても、やはり下さい下さいであったらどう言う事であろうか、その邪気がない無邪気であるから、神様はおかげを下さるのであるけれども、そう言うおかげは桜の花の信心ですよ。
貰うて貰うても尽きない限りない、限りないと言うのは貰うても貰うてもそれが実にならないと言う事だから、上げましょう上げましょうと言う事に。ましてや人に求められたら、与えられる事が有難いと思わにゃいけん、所がその与える事が有難いとは思えなくてもです 下さい下さいと言う人の心になってです、気の毒だなと思う。そこでこちらが言うなら神心となってです。
大きな豊かな心で相手を祈ると言う事になって参りますと、どうした汚い人じゃろうかと言う事になって来ない訳です。私共はどこ迄もその下さい下さいと言う信心から、いわゆる上げましょう上げましょうと言う信心になって行く、そう言う信心を私は今日は梅の花の信心だと思います。昨日八女郡からお研修会に参りになる、石橋さんと言う綺麗なおばあちゃんですがお参りになりますでしょう、お医者さんのお母さんです、ご自身はお茶の先生をなさって居られます。
月何回かお参りになって居られます、敬親会に今度はお陰頂いておられます。おとといの、御大祭を拝ませて頂いて、もう大変な感激であった、感動して帰られた、そして頂いて帰った、御直会の記念品の御本を、息子さんの、先生に見せられて、そしてもうその、喜び感動いっぱいで、お話しをされた所が。今までは宗教と科学、宗教と医学と言う物がです、対立すると何時も思うておった、所が私の心に、理屈は分からんけれどもです、その対立的なもの、おばあちゃんとの、対立的なものが消えて。
そしておばあちゃんが言われる。この方は不治の病気をお医者さんであるけど持っておる、耳の神経が時々切れるんだそうです、いわゆる聴覚だから、今の医学ではそれはもう不治の病気と言う事になっておる。だから切れっぱなしになったら、愈々ぜんぜん聞こえなくなってしまうと言う訳です、それで兎に角医者が見放したとか、現代の医学ではどうにも出来ない事が、合楽では実際におかげを受けておられる事実が有るから、ああたも一遍お引き寄せ頂いてお参りしなさい、と言うてその言われた所がですね。
そんなら僕も参ってみろうかと言う事になった、それでもう喜びいっぱいで昨日わざわざ電話が掛かって来た、おばあちゃんから息子がお参りするといよりますが何時頃来たらいいでしょうか、と言うてお電話がかかってきた。それで今日はわたし親教会にお礼に出ますけれども、そう言う御用だったら何時でもいいそちらの御都合のいい時に、おい出られればお会い出来ますよと申しとりましたら、昨日丁度一時か二時位だったでしょうか見えられました。
私は下っとりましたから応接室で色々お話しを聞かせてもろうたんですけれども、是からは毎日と言う訳には参りませんから、土曜たんびお参りさせて頂きますからどうぞよろしく、私は見えましてからおかげになりますよ、あなたのはと言うて私は断言して、あなたが神様に一心に向こうて下さるならおかげになりますよと言うて話したんです。と言うのは私は、是は私は確信をもってお取次ぎ出来ると云う時には、そう言う確信持たして頂けれる程しの神様の働きを周辺に必ず頂くです。
そうやって一生懸命お話しさせて頂きよりましたら、お茶を出して下さったのが冨永さんでした。所謂る耳鼻科の先生の奥さんです それも今参りました言うのです御用に、そしたらお茶を応接間に出して下さいと言われるからと言うてお話しの中ば、所謂る耳の事でお願いに来とるのに耳鼻科の先生の奥さんがこうやってお茶を持ってきた。是なんかはねもう信心の皆様どう思われるか知らん、皆さんは感じられるけれども他所の人ならば、たはごとの様に思われるかも知らんですけど。
もう神様の働きを生き生きとそこに感ずる事が出来るのです。私が何時に来て下さい何時にはおりますからと言うてみえたと言うのではなくて、何時でも今日なら会えますよと、神乍にあなたの良い時間においで下さい 是が十分か二十分早かったなら冨永さんはまだ見えてなかったんです。私共が応接間に入らして頂いたその話しを聞かせて頂いた、さあお茶でも誰か持って来てくれりゃいいなと思っておる所え、丁度冨永さんが見えた、すみません冨永さんあなたお茶を出して下さいと言うのがその話しである。
それで冨永先生のおかげを受けられた事桂子さんのおかげを受けられた事を、そこでしばらく冨永さんがしばらくお話しなさってからもうほとほと感心し、そうですかとそう言う偉い先生でもやはり此処にお参りになるのですか、もうお医者さんちゃ信用しないものかと思うとった。いいえいいえ此処ではお医者さんも、言うならば学者と言われる人達も、お参りしておかげを受けてますよと言う話しでした。
そんな、お取次ぎさせて頂いとりましたら、頂きます事がね、金光さまの、金光と言う事を頂いた どう言う事だろうかと、思うとりましたらね、是と云う字、解りますか、是、金と言う事、もう幸せと言うものはね、所謂、もう例えばもう、健康であると云う事が幸せであるとか、お金さえあれば、幸せであるとかともう、決めきっておる人達ばっかりなんですよ。
そんならば果たして、健康だから言う人が、果たして幸せでしょうか、なる程健康だけは頂いておるけれども、金に不自由しておったり、人間関係で悩んでおったりしとる、事実があるじゃないですか。どんなに、金は山程積んでおってもです、それこそ死ぬ程しの心配をしておる人が、有るじゃないですか、いやしかも金が有るばかりに、してみるとこれ金、幸せとはもう、此処に金さえあれば健康さえ有れば、これさえ有ればと、言う事ではないと言う事。
人間の幸せと言うのはどこ迄も、心に有るしかもその心と言うのが信心によっての心でなければ人間の幸せはあり得ない、ですから先生あなたがちょっと神様へ心を向けられて、本気でお願いをすると言う気になる、その気になるだけでまあ点々とこう打ったら、これが光と言う字になるのですよと言う御理解でした。光と言う字を草書で書くとそう言う事になりますよねこうなるでしょうが、是は光ると云う字を草書で書いた。
だから、是と言う字に点々を打ったら、光を崩した光と言う字になるです、金光と言う事は、もうおかげに繋がる。金光さまの信心によって、おかげを受けられると言う事。だからあなたが、心を向けなさるならばです、おかげになる。此処にお参りになる、石橋さんと言うお婆ちゃんは、義理のお母さんなんです、だからいろんな人間関係の上にも、問題が有る様ですけれども、今日は母のおかげで本当によい所にご縁を頂いた、と言われますから是からは、いわばお婆ちゃまがあなたの信心の側におられる。
まず先生です、あなたよりも詳しい。そして一週間に一遍なりお参りをなさる事によってです、所謂る点々と、親を先生と思うたり又はお参りをすると言う事も、たった点々だけでいいのですよ、そうすると是は光と言う字になる事はおかげになる、それは現代の医学ではいけないのでしょうけれども、冨永先生が此処にコブが出来ておられたのが本当にもう奇跡と言うより他にな云う様に取れてしまったんですからね。
だからそこから冨永先生の、言うなら信心が出来られる様になった話等もさせて頂いて、だから私共はそれをその偶然と言う風に思うんだと、けれども先生の話しを頂いておりますと、是は偶然ではなくて、信心しておかげを受けると言う事は必然ですなと云う様な事を言われた。ああた金光さまのごたる事を言わっしゃるですねと、言うて私が笑って話した事でした。
信心しておかげの頭を不思議とは言うまじきものぞ、信心して霊験の無い時は是ぞ不思議なる事ぞ、ともう信心しておかげを受けると言う事は必然 そう言う確かに奇跡がある事は私共医者も知っているけれどもね、それは偶然のものであって、誰でもがそう言う事になるのじゃないと言う風に思っておったのがです。是は信心しておかげを受けると言う事は、必然と言う事になりますねと、言う様に分かって行かれる是からはどうでも一つ、お参りさせて頂きますからよろしうお願いしますと言うて帰られたけれどもね。
神様が、例えばこの光りと言う字をもって、お知らせ下さると言う所からです、いかに心に光と言うものを求める信心でなからなければいけないかと言う事、是はね下さい下さいと言う信心が二十年続いておりましてもです、そんなら合楽の信心が椛目合楽を通して二十年になります。それが例えば、おかげ下さい下さいと言うて、合楽に通うておる人達の中には、光が無いのです、ですからですね言うならば、上げましょう、上げましょうと言う信心、言うなら桜の花の信心から。
梅の花の信心にならせて頂く所から、心にそれは、まあだ不如意な事ばっかり。お金にもまだ不自由しとる、まあ様様な難儀はあるけれども、そう言う難儀のおかげで、信心が出来ますと言う様な状態が、心の中に育って来ると、だからこそ言うなら辛抱が出来ておる。もう十何年も前だったでしょうか久富勇さん達がお参り初めの頃に、頂いたお知らせに「どじょうのような信心」と頂いた、魚のどじょうと云う川魚におるでしょ。又は「たにしのような信心」とも頂いた事がある。
その時分私はどう言う意味か分からなかった意味は分かっておるけれどもそれがその後に於いてそう言う事になって来るとは感じなかった。「たにし」と言うのはねもう半年でも一年でもちゃんと泥の中にいかっとる貝ですよ、水気が無かっても生き伸びれる信心、「どじょう」なんかでもそうです、川魚のおしらせは、是は全部お徳とおっしゃる。ですから「どじょう」の様な信心からです、お恵みと云う、水と言うのをお恵みと例えますならば、例えばお恵みの水は無かってもです、生き伸びて行けれる信心。
まあその当時此処は、神愛会と言うとりましたから、沢山の人が参って参りますと、この人はよい信心になると言う時にはね、「はまぐり」の様なおしらせを頂いた、会員の貝と言う意味てせしょうねえ。はあこの人は見かけはそうでもなかごたるばってん、仲仲味のある、それこそ味は「大和はまぐり」の何とかと言う様に、味わいのある信心だなあと思いよると、もう必ず味わいのある信心に育っていかれるですね。
かと言うてその時分に、私が頂いておる方達で、あの「しじみ貝」の貝をね頂く、小さい貝、あれは一つだけでじゃなく、あれを寄せると、あれは大変美味しい物ですね、一向信心は育たんです、沢山寄すると、何とかかんとかまあ、例えて言うなら、枯木も山の賑わいと言う事の、例えば今度の記念祭なら、記念祭にもう、合楽に御神縁を頂いてから二十何年にもなるばってん、お参りは、年に何回かしない人達が集まって、ああ言う賑わいになって来る訳です。
だから、そげんとは「しじみ」の様なもの、集めるとなんとはなしにと言う訳です、それかと思うと、又あのほら貝と言うのがあるでしよょう、えらい大きな信心するばいなあと思いよると、何のほらのごと大きいと言うようなのも有ります。ですから、お互いの信心がです、それではね、ひとつも言わば、心に光りと言う事になってこない、たとえば久富勇さん当たりの此処二・三年のもう急激な一つの修業、十年と言う間、信心の有難さが真から分かった。
又神様の働きもこんなにも間違いないもんだろうかと言う様な信心も分かった、言うならばもうそれは野菜を作られる上にでも、もう牛を飼われる上にでももう本当にそれは見事なおかげであった、豚を飼われると豚の上にも大変なおかげを受けられた。それが反対です今度は、豚もなくなれば牛もなくなると言う様な状態、最近では田んぼ迄も失なわなければならんじゃろうかと言う様な状態になっておる、もう愈々神様が求めなさるのが、成程この人は「たにし」の様な信心じゃつたなあ。
成程「どじょう」の様な徳を受ける人であろうと思うのです。「どじょう」はあれは抑えると、きゅうきゅう言うて泣くですもんね、それこそきゅうきゅう言う様な所を今通っておられる、一家を挙げてね、経済の面にももちろん恵まれないが、勇さん自身はあの様な体の状態、奥さんはもう夜中に、それこそせき殺すごとせくそうです胃が。本当にもうどこを押しや、金光様のおかげが有るかと信心の無い者は思うでしょうけれども、その中にかすかではあるけれども。
信心の喜びを成程、苦しゆう御座いますと本当に悲しい事ですけれども、信心を頂いておるとおかげで、と 言うその信心が出来てきた、言うなら梅の花の信心が本気で出来ておる。所謂る信心辛抱をしっかりしよんなさる所に当っておる、此の花が咲いて、そして鶯が来て止まってそしてそれが実りになる、それが梅干しにもなると言う様なおかげを頂いた時です、初めて私は天地の親神様も教祖金光大神もお喜び下さる、神も喜び氏子も喜び金光大神もお喜びと言う程しのです、おかげになって来ると私は信じます。
是は私の信心体験から、それを申し上げる事が出来る 只おかげをもらうと言うのは、もらう者だけが嬉しいと言う事。金光大神も喜ばなければ、天地の親神様も喜びなさらん、其処でそんなら上げましょう、上げましょうと言う、言うならば信心を、今日は梅の花の信心だと、言う風に聞いて頂いたが、そんなら簡単に梅の花と言うと、簡単な様ですけども、やはりお徳を受けると云う、是は何の稽古であってもです。
其の事を一つの成就と云う所まで、持って行くと言うか、其れを体得すると言う所までには、辛抱無しに体得できる事は、何一つだってありえないと私は思う。そこでですなら体の上やら経済の上やら、そのやはり苦労は、それこそ脇で見ておれん位に辛いのですから、自分自身はなお更の事ですから、そう云う信心を、こちらがあげましょう上げましょう、と云う信心に早うなる事だと思います。
それはどう言う事かと言うと、こちらがですもう求められる前に、求められる前にその姿勢を作ると言う事、まあそう云う例を、私は此処では、佐田さん達の例を何時も取ります。」佐田さん達が一家を挙げてですよ、年寄りから子供達に到るまで、佐田さん達夫婦は言うに及ばず、もう例えば其処にその、そう云う一家を挙げての修行がです、所謂る是は本当の信心修行ですから、兎に角有難いもったいない様な修行です。
そう云う修行から、私は自分自身を楽しい有難い、お陰にも言うならば不自由しない、願わんでも頂けれるおかげ、まあ一番理想的な信心とはそう言う信心だと私は思のです。一家をあげてと言うだけでも、実を言うたら難しいけれども、しかもその一家を挙げてがです、信心を願い信心を求めての信心に、是ですからまあー言うならば廻りの出て来ようがない 言うならば何と申しましょうかね。
例えば責めたてられる様にして借金を取りに来られるのは大変辛いですけれども、ああ、あそこにいくら払わんならんじゃったと、こちらの方が先に悟って、催促来られる前に早よう払うて回ろうと、言う行き方ですから素晴らしいでしょうが。そう言う信心からです、私は梅の花の信心と言うのはそう言う信心が一番理想的だと思うです、そう言う信心を私は身に付けさせて頂いたら、おかげが受けられる、所謂る本当の梅の花の信心が出来る、桜の花の信心を言うならおかげ信心と言うならば。
梅の花の信心とは徳を受ける為の信心。そんなら徳を受ける為には辛抱せんならんか病気せんならんかと言う事では決してないと言う事、こちらが一つ上げましょう上げましょうと言う、下さい下さいの信心から、上げましょう上げましょう、一番まあ今の教団で代表的なのは隈田先生です。もう地位と言い又は財産と言い、いろんなものを十分に持ち合わせておられる。
金光様の信心に一度目覚められてからこちらと言うものは、あの様な熱烈な信心になっておいでられた、そこから例えばあんた達は病気しますかと言われる位なおかげを頂いておられる、ああた達はお金に不自由しますか金光さまの信心しよって、ああた達は金光さまの信心しよって人間関係に苦しむ様な事がありますか、と言う事なんです。苦しむはずはない、そう言うおかげを、頂かしてもらえれるのが、お道の信心。それをです桜の花の信心より、梅の花の信心だと。
おかげを下さい下さい、おかげを頂くともう、油断する、改まりもなければ、研く事もようしないで、只おかげ下さい下さい、では何時迄過っても、そのおかげが実にならない、実になる様な信心を、私は梅の花の信心だと今日は聞いて頂いた。ですから私共の心の中からです、おかげをもらうと言う、そのおかげがです、言うならば是、金と言う事になるのじゃないでしょうか、所謂る、是おかげと言う事になるのです、是おかげだけではいかんのですその 勿論そうです。
おかげ頂かんならんかもしれませんけど、それにひとつ、点々を添えなければいけません、これ言う字にそれは、どこ迄も信心辛抱。所謂る梅の花の信心、本気で言わばお徳を受けさせて頂く事の為に、本気で自分の心を、見極めさせてもらう信心、その事を点々と、こう自分の思い方をかえると言う信心、それが光りにならないはずがない、そう言う光りの頂けれる信心を、此処では梅の花の信心だと、教えておられると思うのです、自分の心の中に、動く小さい汚い心でもですそれを本気で。
はあこんな汚い心が有ると言う事を当たり前のごと思わずにそれを取り組んでゆく所から真心も言うならば神心もそこから育って行く、修業無しにはそれを受ける事は出来ません、みの修行もですさせられる修行は辛い、集金に来られてから払うのはきつい、けれどもこちらが、こちらが先にあげましょうと言う信心、言うなら積極的な信心、しかもそれが家族勢を揃えてと言う様な信心を願わせて頂いての信心を、今日は梅の花の信心と言う風に聞いて頂きましたですね。
どうぞ。